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敗戦記念日と左翼の成長 [社会批評・評論]

 私は、4歳で敗戦を迎えた。あまり記憶がないが、夏の初めごろには、疎開先から実家に戻っていたと思う。父親は“隣組”やその連合の世話役のようなことをしていて、上には町会長がいたという話を、後になって聞いた。ま、そんなわけで、8月15日には、家の前に、父親が家から持ち出したラジオを取り囲むように、近所の人たちが集まってきた。悔し涙なんか、流す大人は誰もいない。みんな、押し黙って放送を聞き、去って行ったと思う。後から考えると、私が、母親に連れられて、荻窪の実家に帰って来た時点で、すでに日本の敗戦は予定の事実だったのかもしれない。広島や長崎の被爆は知らないが、東京の焼け野原を見れば、すぐにでも全面降伏するのが、日本の取るべき道だと思うのが自然だったろう。私が実家に戻った時には、まだ近所の子供は誰もいなかった。我が家以外には、人の気配がほとんどなかったような気がする。そんなわけで、一人で遊んでいたが、ある時から、ふと思いついて出た言葉が、「大東亜戦争、勝った勝った、勝った」である。3歳から、ほとんど、親類を頼って、兄とは別々の場所で、しかも、母親は行った先の農家や漁師の手伝いをさせられる毎日だから、1人で歩き回っていた。「大東亜戦争……」のフレーズは、疎開の初めの頃に、従姉妹たちが多い親戚にいる時に覚えたものだが、初めて聞いた時は本気で“この戦争に勝つ”とは思わなかったという記憶がある。
 にもかかわらず、日本の敗戦を知った4歳の私が、どうして「大東亜戦争、勝った……」と歌い出したか、というと、子供心がなせる、社会、幼い様々の経験に対するプロテストだったような気がする。そう、あの瞬間こそ、私のひねくれの始まりだった。小学校に入って、“太平洋戦争”という文字を目にした時、微かな疑問がよぎった。どうして、大東亜戦争じゃいけないんだろう。その後は、ずっと、“太平洋戦争”の連続である。戦争中の日本人が、誰でも口にし、耳にしてきた「大東亜戦争」には、八紘一宇という思想と共に、戦争の真実が表現されていると思う。満州に始まり、中国、東南アジアへと進駐を続けた日本軍の姿は、まさしく、大東亜共栄圏を目指していたのだ。にも関わらず、どうして、当時の教育関係者が官僚や米軍の意を酌んでか、“太平洋戦争”なるネーミングにこだわったのか。およそ、“太平洋”という地名から、誰が中国、東南アジアを想像できるのか?私は、この歴代の間違ったネーミングこそが、多くの日本人にとって、あの戦争の真実を忘れ、次代へと語り継げない最大の原因だと思う。そして、日本人が歴史への反省を、日常的にできなかった原因も、ここにある。あの戦争は大東亜共栄圏を作るための、間違った戦争であったのだと、あの戦争に関して話したり、聞いたり、読んだりするたびに、感覚で反復できなかったからこそ、いまの憲法論議のあれこれにも繋がるのである。
 残念ながら、こういう現状に、いまだに大きく“貢献”しているのが、日本の左翼なのだ。東京の杉並で、例の“新しい”とか言う歴史教科書を採用するとか、反対だとかというニュースを見ていたら、相も変わらず、「大東亜戦争」がけしからん、“太平洋戦争”に戻せと、左翼が主張していた。もっとも、いまのインテリご婦人たちは、自分は左翼じゃないと、本気で思っているんだろうが、“普通の”何もしない人より“左”の人を、昔から左翼って呼ぶんだよ。こんなわけだから、政党も個人も、日本の左翼はもっと、もっと、勉強すべきだと思うね。だいたい、入り口の「大東亜戦争」で、それは“太平洋戦争”だって文句をつけていたら、論争にもならねーぜ。本当に「新しい歴史」を学ぶのなら、アメリカ人の常套文句の“パールハーバー”では何人のアメリカ人が死んだのか、アメリカはどうして長崎の爆心地にあった教会を撤去させたのか、占領中の売春婦対策は完璧で、日本人の素人女性に対する暴行は記録に残っているのか等々、左翼の方でも論争を吹っ掛けていかないと、いまの歴史教科書が“正解”ってことになっちまうぞ。

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