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精神論を忘れた日本人社会 [社会批評・評論]

 朝青龍問題は、日本人社会が抱える重大問題のはずなのに、みんな元横綱の個人的な問題であるかのようにスリ替えて、口を拭っていると思う。やれ“品格”がどうの、親方の指導がどうの、と言う前に、スポーツを含めた教育界や社会全体が、少しでも日本人社会の“品格”について論じ合ったことがあるのだろうか。例えば、ジャーナリストの“品格”って何なんだ?ゼネコンの“談合”を批判しながら、記者クラブという“談合団体”の利益だけを先行させている。そればかりか、こんどの“小沢問題”のように、親方日の丸の官僚に迎合した“品格”って、何なんだ!さらに、数々の“部活”や体育授業での“イジメ殺人傷害”事件と、教育界の真相隠蔽、その報道ぶり。朝青龍の土俵上の“品格”問題にこそ、弱いものをイジメ抜こうとする体育授業や部活の現実がある。少なくとも、彼は10年前には、日本の高校生だったのだ。政治家も同様。自民公明政権時代には、労働環境の悪化は“自由な労働環境”を求めた若者の責任と嘯いた議員(特に女性)や政府委員のオンパレードだった。平気で嘘を言い、スポーツや鍛練の場で倒れた相手を、さらに痛めつけようとし、一瞬のブレーキをかけない習性。その中から、修行中の若者を親方が殺す事件も起きた。
 そもそも、朝青龍は、ファイトをコントロールし、勝利を確信した瞬間に、相手を庇うというプロの相撲をしたことがないのだろうと思える。親方の指導力が再三、指摘されているが、あの親方は朝青龍を、有能な“労働者”としか、見ていなかったのではないか。朝青龍が結婚したとき、結婚式の御祝儀の大半を取ろうとした親方と、殴り合い寸前になったらしい。「金と権力がすべて」と教え込んだのは、あの親方なのである。朝青龍は、最後の最後まで、“横綱の品格”問題を理解できなかったようだ。“品格”の強制は、自分の相撲を変える、とでも思ったのだろう。もっとも、これは教育界でも同じなのだから、朝青龍や生徒の責任ではないと思える。一時、“品格のナントカ”という本が流行ったが、そんなものは、教科書で教わるものじゃない。幼時に親から聞いた話や、小中高の教師たちから聞いた話で、自然に身につくものだろう。私は、なぜ、中学校の運動会から騎馬戦や棒倒しを排除したのか、何度もブログに書いているが、相手に怪我をさせないファイトを排除した教育界に、救いはない。イギリスのラグビー、アメリカのフットボールは、幼時から教え込まれるが、そこにはファイティングスピリットと裏腹の“思いやり”精神がある。それなくしては、本来、格闘スポーツは成り立たないからだ。
 考えてみれば、軍隊も同じだろう。いまの自衛隊なんか、武士道や戦陣訓すらないらしい。こんな軍隊が、日本で大衆デモの鎮圧などしようものなら、何をするか、わからない。私などは、60年安保で自衛隊が出てこなくて良かったと実感する次第。

新政権ファンは“全共闘”世代に誘導されるな!! [社会批評・評論]

 偽善メディアが、息を吹き返してきた。誘因は、新政権内の不統一や不手際、総理を補佐する官房長官の無能だと思うが、少し前まで「小沢を下ろせ」の合唱をしていた付和雷同の大衆が、「鳩山も悪い」に変わりつつあるというだけで、民主党政権の叩き甲斐が出てきたと安心したからだろう。かといって、本気で民主党政権を引きずり下ろそうという根性があるわけでもなく、頼りはどんな誘導にも、注文通りに答えを出してくれる団塊世代の男女がいるから、適当に提灯を付けておこうという魂胆なのだ。ただ、保守新党を狙う舛添が、そろそろ、蠢動する気配だから、民主党もそうのんびりしていられないだろう。前厚労相の舛添は、立場上、社会福祉に理解があるようだが、典型的な増税論者でブッシュ政権のウルトラ軍拡路線ファンで、小沢氏が実権を握る前の民主党に対して、「社共の平和主義を支持するのか?」などと牽制していた。しかも、舛添は東大全共闘の師匠格と言われた時期があり、メディアの全共闘世代が飛びつく可能性は十分だ。何といっても、民主党政権を叩けば、スポンサーの財界が歓迎してくれる。財界の忠犬ハチ公としては、これ以上の舞台はないわけ。しかし、最近の記者の能力、プライド、どれをとっても最低のクラスとしか思えない。例えば、取材相手がピント外れだと思う質問をして、指摘されても、「だから」とか言って、無理矢理、自分の能力の高さを、相手に認めさせようとして、見苦しい場面をテレビで最近見てしまった。無論、こういうのは女性記者に多いようだ。いまの報道が不満なのは、メディアが鳩山政権に抱く危機感や記者の問題意識が、全然伝わってこないこと。むしろ、そういうことよりも、情緒的な批判報道だけを先行させているように思える。
 鳩の兄ちゃんの政治資金問題も結構だが、ほかにも、報道すべきことはヤマほどあるだろう。例えば、一見、右翼風の男が元厚生官僚をテロった事件なんか、メディアの幹部が誰かの意を酌んで、報道統制しているとしか思えないんだ。愛するポチへの強い郷愁と愛情が、どうして官僚テロに向かうんだよ。行きすがりに見かけた野犬の捕獲員を殺すと言うのなら、まだ理解は出来るよ。しかし、あの元官僚は、年金担当で国会に喚問される予定だったというじゃねーの。昔なら、スクープ合戦で大騒ぎしているのに、全共闘世代が主導権を取ると、メディアは平和惚けになるんだ。何といっても、この連中は、70年闘争とか言って、東大の赤門に「造反有理」っていう毛沢東の“教え”を掲げたのだからな。世間では、70年の学生運動を、10年前の60年安保と混同し、団塊世代は意識して混同させる傾向にあるが、60年安保世代としては、冗談じゃないと思う。ハッキリ言って、60年のあれは、学生が前面に出た大人の社会運動だったのだ。だから、余談だが、こんどの選挙の結果で、密かに感動に耽ったのは、この世代ではないかと想像している。無論、数から言えば、民主の圧勝は団塊世代のお蔭だろうとは思う。しかし、典型的な付和雷同型の大衆である団塊世代が、新橋辺りでテレビのインタビューで答えているのを見ると、「構造的な不況と労働環境の不均衡を生んでいる原因は、あなたたちにもあるはずだ」と言いたくなる。若い派遣労働者のために、1時間の給料カンパや時限ストなど、社会的なアピールのできる立場に彼らはあるのに、まるで人ごとの政治オンチぶりだ。
 タコ部屋、無権利労働など、最近は、とっくに死語になっていた言葉が脳裏をかすめる。明治維新後、労働者の関心事は“8時間労働”の実現であったが、ロシア革命の影響を受け、ヨーロッパの労働運動を高揚させたこのスローガンに明治、大正、昭和初期の国家、資本主義は半狂乱で抵抗した。先進的な労働者や組合幹部が投獄され、同調する学者の論文までが投獄の対象となった。世界の趨勢でもあった“8時間労働”は“先進的”と言われた学者をも2分した。当時、“友愛”を掲げる労働運動もあったが、“8時間労働”を無視した。戦後、“アメリカさん”のお蔭で、“8時間労働”が実現したが、小泉、竹中路線がいとも簡単に、日本の労働者から“8時間労働”を奪った。民主党は“明治維新”だと胸を張っているが、“8時間労働”の復活と底辺労働者の奴隷状態には、目を瞑っている。私は、日本の労働運動を規定してしまったのが、戦前の“8時間労働”に対する態度だと思っているのだが、民主党はどんな回答を出す気なのだろうか。(2010.1.7)

“暴走”始めた民主党政権 [社会批評・評論]

 民主党政権が“暴走”し始めたらしい。元凶は、“老”財務相。久しぶりの現役復帰に、張り切ったはいいが、「予算を仕切るのは、旧大蔵の仕事。天下国家を描けるのは、俺たちしかいない」と、突っ走り始めた。これで、菅直人副首相の出番はなくなった。超ベテランの大蔵主計OBを引っ張りだした手前、いきなりストップをかけるわけにはいかない。仕方なく、様子を見ることにしたらしいが、すっかり、その気になった超ベテランは、亀井金融担当相の中小零細企業救済策にも、ストップをかけようとした。とにかく、この超ベテランの頭の中は、すっかり数十年前にタイムスリップしているから、選挙公約の象徴的な目玉であるはずの、生保母子加算を優先的に先行させる素振りもなく、格好つけて査定するかのように見えた。官房長官も、同じように舞い上がっているようだ。これも“目玉”の子供手当に「地方も負担しろ」と言い出したのだ。それも、わざわざ、記者会見を開いて「マニュフェストには、地方に負担させない、なんて書いてあるか」と、嘯いた。メディアの批判は、いち早いスタートで注目された運輸国土開発相に集中したが、ダムの即時中止は、私に言わせれば、当然すぎるほど当然である。ダムは、伝統的な裏金づくりの代表で、当初予算に関係なく、幾らでも増額できるのが、従来の政治システムの常識。地元の行政当局がしゃかりきになっているのは、予定が狂ったからで、テレビに映る彼らの姿や顔は、私から見れば、ザマミロなのだ。
 暴走と言えば、予算委員会が始まり、クレージーな部分が露呈してきた。例えば、沖縄の基地問題。海兵隊の普天間移転をめぐり、“閣内不一致”と揶揄されているが、沖縄の世論を気にして、この“不一致”だけを攻める自民党は迫力に欠けた。与党時代のように、「お前ら、いつから“反米、平和主義”に変わったんだ」と切り捨てるポーズが消えちゃった。逆に、こういうポーズを取ったのが外務大臣で、「共産党はいつも変わらない反米の方針だから、そういう無責任なことが言えるんだ」と、追及を交わそうとしたのだが、逆に、「マニュフェストと選挙演説やテレビ番組の発言と違うだろうが」と、突っ込まれてしまった。しかし、右手で引っぱたき、左手で頭を撫でるというのが、いまの共産党だから、この程度で迫力なし。私から見れば、せっかく、米軍基地と縁を切ったフィリピンなどの例を出したのだから、「じゃー、当時のフィリピン政府を初め、米軍基地をなくした国の政府は、みんな共産党だったんだな」「苦し紛れに、アホ言うんじゃねー。住民の立場で方針を決めるのが、民主党政権じゃなかったのか?フィリピンやガテマラと同じように」って攻めれば、格好よかったと思うのだが。しかし、昔から、共産党って、説得が大好きで、突き放しが下手なんだ。ボディーブローは、後から利いてくるのに、惜しかった。本質は、“いい政治”“ホメられる政治”をやりたいのが、いまの民主党政権なんだと思う。でも、これでは、すぐに行き詰まるだろう。
 “労働者福祉”って言ったら、自民党が大騒ぎするかもしれないが、“住民福祉”なら、文句はないだろう。つまり、内閣の明確なキャッチフレーズを作って、基地問題も思いやり予算の部分修正も、これで乗り切れば良い。事あるごとに、「自民公明政権は余りにも酷すぎたんだ」というフレーズをバラまけば、心ある国民は支持するだろう。問題は、閣僚の中には、自分たちは国民に託された“特別の内閣なんだ”という意識に欠けた人材がいることだ。

誘う女と誘われる男たちの論理 [社会批評・評論]

 インターネットの出会い系サイトと言えば、売春絡みが相場だと思っていたら、女性主体の結婚詐欺が現れ、しかも、大量殺人の匂いが濃厚になっている。キーポイントは、女のほうが先に“結婚”を口にする、男から多額の借金をする、男と会うときの服装は大きく胸をあけた上着を着る、これが一連の報道の3点セットだ。結果としての殺人は、男に追われて詐欺をバラされないため。先のキーポイントは、少し前までは詐欺男の常套手段であったが、いまや、主役が女に移ったようである。ただ、違うのは、男が主役だと、結婚を餌に体の関係を結び、女が金を持っていなくても、金を借りさせたり、体を使って稼がせるという手口が常套になっていたこと。しかし、昨今の学歴社会の影響か、女性が詐欺男に引っかかるケースが減ってきたために、大きな社会的事件にはならなくなったのかもしれない。第一、男が主役の結婚詐欺では、殺人事件にまで発展することは、それほど多くはなかった。まして、次から次へと相手を殺しては新しい相手に変えるなどという“非情さ”は、これまでの詐欺男には見られなかったと思う。こんな世情は、昨今の男社会の軟弱さの現れと言う他ない。
 いくら、女に飢えている男でも、遇って間もない女の方から「結婚したい」などと言われたら、“ちょっと待てよ”と警戒すべきではないか。そんなに、女のほうが気を許す要素を持っているのなら、いままでの人生のあれこれの中で、2度や3度は、そういうことがあったはずだ。しかも、胸空けスタイルなんてのは、女にとっての“営業”以外の何物でもない。いい年をして、そんなこともわからないのかと思う。こういうのは、いくら歳を重ねていても、“熟年”とは言えない。いままでの人生の中で、胸を強調したスタイルの女性がいる飲食店に、1度も行ったことがないのだろうね。しかも、気を許したところで、多額の金を要求する。仮に、肉体関係のある男女であっても、結婚に際して多額の金が動くケースは、金持ちの高齢者が若いピチピチした女性に結婚を申し込んだり、あるいは、仲人を立てて結婚を申し込む場合に限られる。これが、世間というものだろう。結婚相手に直接、多額の金を支払う、あるいは貸す、預ける等々、普通はこういうことをしない。こういう状況が、もし、結婚相手のリードで作られたとしたら、もうすでに、“バーチャルな世界”が展開されているのである。
 いまの状況では、まだ、殺人事件にまで捜査が進展していないというが、可能性は“結婚詐欺”に止まらず、売春や援助交際を口実とした殺人事件の可能性もあるかもしれないと言われている。その根拠は、女が、毎月数十万円の支払いを抱える生活をしていたから。いずれにしても、舞台はインターネットという“バーチャル”であるはずの世界だ。すでに、殺されている被害者は、ブログに結婚という素敵な世界への旅立ちを綴って、そのまま死へ旅立った可能性があるという。“犯人”の女にとっての価値観は、(騙されるような)“バカ”は死んで当然ということに尽きるのだろう。その論理は、退屈凌ぎにブルーテント住民への襲撃に向かう中学生のガキと、まったく変わらない。私はこれまでの一連のブログで、いわゆる高学歴の女性の馬鹿さ加減を揶揄してきたが、その気持ちはますます深まるばかりだ。しかし、腑に落ちないのは、状況をひたすら引き延ばしている警察の態度だ。西の方でも同様の事件が起きているが、こっちも野放しだったようだ。何でもかんでも“事故”“自殺”で処理し、捜査そのものを放置している。これは、政権交代と無関係ではないような気がする。国民の不安感を煽るのが、警察官僚の方針だとしたらとんでもない。不信の声を上げる政党や議員は、いないのか?

来年のプロ野球は、面白いか? [社会批評・評論]

 今年は、まー、順当だったと思う。読売のブッちぎりを止めるのは、タイガースしかいない、と思っていたが、パリーグでシステム手帳の記入に勤しんでいただけのV戦士には、荷が重すぎたようだ。いくらベテランでも、ブルペンにしかいなかった投手コーチを、ベンチに入れて、責任を負わすのは冒険過ぎる。しかも、前任者はベテランコーチの補助。これでは良くても3位。さらに、何度もブログに書いている、バックホームのできない外野手を平気で使い続けた。鍛えればホームラン打者になる、と思ったのだろうが、打率は2割6分そこそこ、投げられない、守れないでは、高校野球並みだ。案の定、大事な3位争いで致命的なエラーをした。ライナーをグラブの土手に当てたんだと。これもそれも、みんな前任者の“影”を意識し過ぎてのこと。前任者は、肩が弱い外野手をことごとく、パリーグに送った。代わりは、実践向きの中継ぎだ。いまのタイガースのエース格、下柳も、最初はそういう投手だったんだ。せいぜい3000万と億の違い。タイガースには、ベテラン近い投手の夢が、いまもある。さて、来年は鬼も笑っているが、何といっても、タイガース前任監督のパリーグデビューである。この人ひとりでも数千人のファンは増えるから、日本1の悪徳金貸し会社も、さぞ、お喜びでしょうね。こうなると、東京ドームでも頻繁に見たいが、いまは埼玉県の所沢の外れでしか、東京のファンはオカダに会えない。
 そろそろ、日本1、つまり、Vの話題がメディアの中心となるが、来年こそ、オカダVS原の話題で持ちきりになるんだろうね。今年も、オリックスは弱いチームではなかった。選手の故障が多かったようだが、アンチ監督、フロントに反発した“故障”ってのも結構あったと思うよ。外国人なんか、海千山千のタフなのが多いからね。ワセダ閥の代表とイエスマンの監督じゃ、チーム全体への説得力に欠ける。交代したオカダも、ワセダ閥と言えば言えるが、代表も責任を取らされたのには、深い深いワケがある。実は、ワセダ出のエリート選手として阪神に入ったオカダを、昔の阪急ブレーブスにトバしたのは、今回、オカダと入れ替えで首になったワセダ閥の代表である。つまり、当時は、選手としてのピークを過ぎ、日本プロ野球選手会の会長として、チームを離れることも多かったオカダは、球界エリートの1員でもある当時の監督に嫌われたんだ。だって、オカダという選手は、新人のころから、2塁のベース上で、「次にヒットが出たら、自主判断でホームへ突っ込んでも、エエですか?」みたいなサインをベンチに送っていたからね、多分だけど。まーね、仕事が遅い、大トロの中間管理職が、一番、忌み嫌うタイプの、鋭い働き手なんだ。だから、“5年計画で優勝を”という球団の期待に、監督就任2年で応えたものの、次の年もブッちぎりだと思われた矢先、急に勝てなくなってズルズルと深みにはまって、遂に首位陥落、オカダは自分を責める形で辞任したのだ。まさに、昭和の看板を背負う男のカガミです。
 一方、仙台の監督が「2位なのに、首になっちまった」というので、大騒ぎしている。でも、この人のコメントは、年とともに正直さを増していて、あー、2位のお手当が出たんだ、とか、フロント狙いとか、簡単に想像できるのが、面白い。それにしても、優勝したわけじゃないのに、2億円は出さんだろうよ。まして、相手は、名うての銭ゲバIT。前広島の外国人監督は、7000万程度か。万が一、“前”監督がフロントにでも入れば、コーチを入れ換えるにも大騒ぎになるな。パリーグには、ほかにも、選手の支持がある外国人監督を叩き出しているチームがあった。
 そんなこんなで、いくら鬼が笑おうが、来年のパリーグは、“オカダ一色”で染まる要素が大。しかし、まー、目下の興味は、仙台のチームがどこまで勝ち続けられるか。巨人と日本1を争うことになれば、面白いのだが。海千山千のカントクが“奇策”を連発すれば、野球ファンが戻るかも。私としては、巨人を倒して仙台の優勝となった時の、ドケチITオーナーの顔が見たい。株価が下がれば、もっと面白いのだが。だからといって、私はノムラのファンではない。阪神時代に、長く監督をやるためにだけ、補強をさぼり、能力のないコーチを使い続けた恨みは、いまも忘れないからだ。

民主政治の大いなる実験 [社会批評・評論]

 鳩山内閣の誕生をウォッチングしていて、「あー、これは民主政治の実験なんだ」という実感を強く持った。初めが肝心、とばかりに、繰り出される“アンチ官僚支配”の小気味良いパンチ。原稿なしの大臣就任会見に始まり、極めつけは、新外相の“大臣命令”書であった。メディアに公開しての業務命令。メディアへの公開と言えば、大臣担当の職員が大臣の趣味嗜好を聞き取る光景まで公開されて、面白かった。「お酒は何が好きですか?」「ワインですね」。秘書らしき女性との会話だが、こういう会話は、オープンに限る。相手が業者なら問題だが、いかにも、防衛庁らしい会話だ。ところで、新外相の“命令”書は、歴代外務省が隠し続けている“核隠し”の秘密協定を「明らかにしろ」というもの。すでに退官している元幹部が“あった”と証言しているのに、“ナイ”“ナイ”と言い続ける外務省幹部への先制パンチだ。ほとんど深夜に近い時間の“爆弾命令”。各紙の朝刊が、絶対にねじ込むであろうホットニュースになった。やるね、前幹事長。この秘密協定は、最初に60年の安保条約で付けられたもので、70年の沖縄返還と同時に再改定された時に、より具体的になったと言われる。別のブログでも書いたが、毎日のスクープを、当の毎日や各紙が事実上、否定した日本のメディア史に残る恥部でもある。
 日本の政党で、この秘密協定を追究してきたのは、唯一、共産党だけであるが、にも関わらず、民主党政権があえて取り上げたところに、今回の選挙の大きな収穫があると、私は思う。無論、“友愛”を掲げる鳩山内閣が、この問題を取り上げないほうがおかしいのであるが、仮定の話で、もし社民党政権だったら、どうなっていただろうかと、率直に考える。それは、55年体制の中で、社会党が常に自民党と妥協を続け、保守分裂の下で政権を取るチャンスもあったのに、逃げてきたからだ。最大の原因は、中国、ソ連の影響を受ける複数のグループが、常に介在し、在野の思想集団とも連携を蜜にしてきたために、党の指導部が一枚岩ではなかったことによる。だから、地方選挙などでも“容共派”と言われる地方の大労組が、共産党との連立をする一方で、常に自民党など保守政党への支援を欠かない地方組織も、右派、左派の区別に関わらず、あったし、いまも残されているのである。このためかどうか、共産党内部には“社民”という党内の専門用語(隠語か?)が大昔からあって、大衆的な運動であっても、“彼らには近づくな”という60年代の“指導”が、いまだに日々入るのだ。
 ところで、新外相の“業務命令”を見ていて、私は、遥か昔の60年の安保闘争を思い起こし、あぁ、やっと、あの行動は無駄ではなかったのだ、という実感に達し、ちょっとばかりセンチになってしまった。センチメンタルじゃーねー、ってやつである。正確に言えば、49年ぶりの感動だ。わが日本民族は、取り敢えず、民主党を選んで正解だったと思う。正直に言えば、私は大学1年の春から夏にかけて、入学記念に大学の生協で買ったばかりの革靴の爪先を、見事にアスファルトですり減らしてしまったが、それはジグザグデモという独特のデモのためであった。外国のメディアは、“スネークダンス”と表現したらしいが、日比谷あたりの大通りをスクラムを組んで左右の道路端まで、蛇行を繰り返す、若者ならではのデモであった。無論、車は止まる。初めのうちこそ、車の方がデモ隊への抗議のクラクションを鳴らしたが、そのうちに、共感、がんばれの合図に代わった。そして、これは別のブログでも書いたことがあるが、夕方の学生デモに対して、沿道の一般市民から焼鳥やあんぱんなどが、差し入れられるようになった。
 ところが、都会に限定されたとはいえ、これだけ、一般から支持された安保闘争が国民の間で起きたのに、その後の政治に反映されないのが、私にはずっと不満だったのである。ところで、安保闘争とは、正確には“安保条約に反対する学生と勤労者の闘争”と言うべきだが、当時は省略して安保闘争と呼んでいたのである。私は、6月15日の同条約自然承認後、必然的にデモは終わったが、大衆の中には国家に対するアンチテーゼとして、多少は生き残るだろうと考えていたが、そうはならなかった。原因は、野党の主力である社会党が左右に分裂し、総評などの労組と連動して、国民の支持を得るより、自民党との宴会や妥協に精力を使ったからである。差し詰め、村山内閣の誕生は、この頃の国対政治の延長と言うべきで、社会党が、その後、社民党と名前を変えたのは、私から見れば、恥ずかしさを隠すためではないかと思うのである。そんなわけで、いまの社民党党首が、あれこれのパフォーマンスを国民の前でして見せているのは、どうにもウザイ。民主党の閣僚たちが、至極真面目に、国民との約束を果たそうと努力している時に、閣僚の1人である社民党党首の勝手気ままな行動には、大いなる国民的なチェックが必要と思われる。

煩い蠅のような“アメリカ” [社会批評・評論]

 “アメリカ”が煩い。まるで、夏場の蠅のようだ。「中東の各国艦船に対する水と油の無料支給は、お前らの義務だ」「米軍基地に対する、いかなる注文も、米国は受け付けない」「日米安保条約は、米国と日本の秩序だから、誰も妨害するな」等々。そのうち、“真珠湾を忘れるな!”の大合唱が、アメリカ国内で起こるだろう。バカの一つ覚えみたいに。だいたい、日本の真珠湾攻撃で、何人のアメリカ人が死んだのか?昔のニュース映像では、ほとんど火事場にしか見えないが。代わりに、2発の原爆で、何人の日本人が死んだのか、すべての日本人が頭に叩き込むべきだ。原爆ばかりじゃない。東京を初めとする無差別のじゅうたん爆撃で、日本人の命と財産が、どれほど焼き尽くされたか。子供の頃、荻窪に住んでいた私は、ごくたまに電車に乗った時、新宿から大久保にかけての車窓から、焼け野原しか見えなかったという思い出がある。もっとも、結果的には、日本も中国のある地域では無差別攻撃をしているが、広島、長崎を含めて、日本が米軍から受けた無差別攻撃は、それらの比ではない。日本では、共産党や社会党系を初めとして、平和団体と称するグループが多いが、大東亜戦争における日本国内での被害を調査している団体というのは、あまり聞かない。
 ここまで、米国を増長させてきた責任は、日本の外務官僚や歴代自民党にある。例えば、もうすでに“メッキ”が剥げつつある“核3原則”だ。米軍に核爆弾を、日本国内に持ち込ませないという名目で、再延長した日米安保条約であるが、“3原則”が大嘘だったことが米軍の資料で明らかになっている。時の総理大臣、佐藤栄作氏は日本国内に核を持ち込ませず、使わず、作らずの3原則を貫いたというので、ノーベル平和賞を受賞している。世界的な“ペテン師”と言う他ない。無論、日本外務省も。1970年の安保条約再改定に関しては、毎日新聞の西山記者が核の密約をスッパ抜いたが、その取材方法が外務省の女性職員と“情を通じて”のものだった、というだけの理由で、裁判によって“ガセネタ”扱いされたのだ。日本人の利益や日本の国益よりも、アメリカの国益だけがすべての、日本外務省。話は突如飛ぶが、北朝鮮による拉致事件だって、ここまでコジらせたのは、外務省が何もしなかったからである。二十歳前の日本人女性を、北朝鮮が解放させたがっている、どこか、アジアの国を指定してくれという情報を、最初に聞いたのは財界人の1人だが、日本外務省は何も行動しなかった。無論、彼女が“結婚”する前の話だ。
 アメリカや中国と、どう付き合うのか。等距離で、2国と付き合いたいというのが、“友愛”の神髄だとすれば、少なくとも、米軍に対する過剰な出費を極力抑えるべきである。海兵隊グアム移転費用の6割負担など、論外もいいところ。思いやり予算では、米兵の長期休暇で、冷暖房つけっぱなしの基地内住宅の光熱費も入るし、母国への一家帰国費用、子息の米国内の大学往復費用やアメフト、野球場の整備、CNN等々、実にくだらないほどの、“揚げマン”ぶりなのだ。日本以外にも米軍基地のある国々はあるが、こんな無制限な“カツ上げ”状態は日本だけ。民主党政権には、戦後の保守政治の総括として、独立国日本の理想を追求して欲しいと願う。もっとも、アメリカに対する政治的、行政的な屈伏は、金の面ばかりではない。携帯電話がスムーズに使えないのは、地上から5000フィートぐらいまでの電波を、米軍が抑えているからなのだ。世界的な歌手、坂本九を乗せた日航機が、管制塔と連絡を取れずに墜落した惨事は、このために起きた。日本人の生活を侵害したうえに、いまだに占領軍ヅラして恥じない“ヤンキー”ぶりを、早く終わらせて欲しいと願う、“正しい”日本人の私である。


“重い期待”が実現――2009年晩夏 [社会批評・評論]

 私は、こんどの選挙に対する気持ちを“重い期待”と表現したことがあった。それは、選挙後の民主党の動きを見てもわかるように、これから、民主党がやろうとしているのは、日本の伝統的な政治システムの改良に過ぎないからである。無論、それは非常に大切なことだけれど、私には、これからの政治の方向が、労働者福祉へ向かうかどうかのほうが、数十倍の関心事なのだ。だから、私の本心では、民主党政府実現のために、多くの小選挙区で候補者を立てずに、票を民主党へ差し出した共産党が、比例区でどこまで伸びるかに興味があったのだが、現状維持の9議席というのが、限界だったようだ。一部のメディアが分析しているが、民主党の比例区結果を見ると、共産党員が電話で「小選挙区は民主、比例は共産」と依頼しても、もともと共産党が強い地方では、民主の爆発的な比例区得票に対応した、比例区の得票が取れたのに、弱い地方では、共産党が票読みしたにも関わらず、比例まで民主党に流れたことを物語っている。どうして、私がこんなことにこだわるかというと、民主党は政策的に“労働者福祉”を掲げる政党ではないし、あくまでも保守政党としての余地を残しながら、歴代保守政権の改良をしていこうという性質を持っているからだ。
 だから、ヨーロッパの有権者たちは、民主党のような改良主義の政党と抱き合わせで、日本の共産党のような徹底左翼に、批判政党としての椅子を、ある程度は与える工夫をするのだが、いまの日本では過去のような、中選挙区とはいえ40議席などという力を、共産党の地方組織自体が持っていないから、今後も民主党政権が続くとしたら、競馬のオッズではないが、選挙区での民主、比例区の共産という“2連単”の馬券を考えて、投票所に向かうべきではないだろうか。私がなぜ、こんなことを書くかというと、今回の選挙でテーマとなった派遣労働者関連法規の違法性、後期高齢者医療問題、母子家庭への給付金削減等々を、当初、国会で取り上げたのが、唯一、共産党だけだったからである。数年前までは、民主党も自民公明政権に追従することが多い、困った政党であったが、小沢体制になって、国民の“空気が読める”政党になった。とはいえ、民主党政権に対して、自民党は様々の懐柔やら、保守回帰への陰謀を仕掛けてくることが予想されるから、本当は15人くらいの共産党衆議院議員が必要だった、と私は思う。今回の選挙終盤、自民党は従来、考えられなかったような作戦に出た。それは、堂々と、自民党の名前を掲げた“アカ攻撃”で、例えば、8月23日の日曜日に配布された小冊子のタイトルは、驚くなかれ「知ってビックリ 民主党 これが実態だ!!」というもの。いままでの政策論争は効果がない、と判断したのかどうか、突如、昔ながらの“アカ攻撃”に打って出たのだ。
 従来は、この種の謀略パンフやビラは、公明党の専売特許だった。10年以上前の選投票日直前、共産党を意識した創価学会、公明党が、共産党のイメージダウンを狙ったビラを撒いたことがある。しかし、この時は、発行元不明だった。だが、今回のパンフは「自民党」を名乗り、ご丁寧に、このパンフが違法なものではなく、日常的な政治活動であるから、選挙中でも許される、ってな断りまで入っているのだ。しかし、民主党を“暴力革命”とダブらせるような表現は、いくらなんでも、論理的に無理があるし、自民党の日常的な政治活動からは、明確に逸脱していると思う。しかし、冷静に判断すると、このパンフの発案者、実行責任者は、細田幹事長ではないだろうか。というのは、大分前に、民主党など野党が派遣労働者に対する政府、行政の違法性を追及した時、細田幹事長は「民主党がやろうとする政策は、社会主義だ」とまくし立てたことがあるからだ。しかし、そもそも、現在の民法や労働法など、労働に関する様々の法制度は、敗戦後にできて、戦後の高度成長の原動力にもなってきたものであるから、「昔の労働行政に戻せ」「新自由主義の労働実態は、戦前の無権利労働と同じだ」という野党の主張は、別に過激なものではなく、先進国では当たり前の制度に過ぎないのだ。だが、この自民パンフのような主張をすれば、民主党の“右”の連中がホメてくれると思ったのかどうか、ここぞとばかりの“論理”が展開されていくのである。そして、サブタイトルが、「労働組合が日本を侵略する日 民主党にだまされるな!」、そして、「もしも民主党が政権をとったら…」「革命や闘争という言葉をいまだに使うような労働組合の思うがままの政策」が実行されるぞと、国民に対して警告している。だが、今どき、「革命」なんて用語を使う労働組合があるわけがない。私は、40年以上前の20台前半に、組合員300人程度の労組で役員をしていたことがあるが、組合のビラで「革命」なんて書いたら、みんな組合員は組合を辞めちゃう、はずである。それが、正常な感覚。“中核派”じゃあるまいし。で、ついでに「闘争」という言葉を解説するが、この言葉を使えないのなら、“ボーナス要求”のステッカーを休憩室に貼ったりすることもできない。労働組合ってのは、管理職に対する何かのお願い1つも、「闘争」という仲間言葉を使うのが、万国共通の習わしだから。
 それにしても、“組合闘争”という国民的な、労働行政上の権利を、「革命」という政治的な用語で混同させる、昔ながらの“アカ攻撃”には、焦りを通り越した自民党の“狂気”さえ、感じさせた。こうして、同パンフは、具体的には、民主党がマニュフェストで掲げる、会計監査など企業の“情報公開”を求めることが、企業の自由な経営を損ない、倒産を招きかねないと、論理を展開するのだ。欧米では当たり前の、資本主義のルールが、日本では認められなくなったのは、小泉、竹中路線の結果だが、まだ経済界では残る新自由主義の金科玉条に加えて、今後は民主党に対する“思想攻撃”が新たに加わるのだろうか。いずれにしても、民主党政権とはいえ、今後も共産党の出番は多いはずだ。しかし、何といっても、9議席は少ない。これでは、応援団としての役割も、半減する。議会内での交渉権を獲得するには、最低11は必要だし、これからの情勢は有権者に、いろんな政治的判断を求めていくのだろう。

救世主か?史上最悪のペテン師か? [社会批評・評論]

 いやー、最近は、ビックリするなー。そういう話ばっかしだものね。いや、ピーの話じゃなくて、鳩の方だけど。週刊誌の見出しなんか見ると、“300超え”とか、金魚のうんこだと思っていた女性弁護士の党まで、15議席だって。共産党は現状維持の8が、やっとだっていうのに、国民新党にまで水を空けられる可能性が大とか。最近は、プロの大衆が少なくなっちゃったんだね。どっちが自分たちの生活を有利にしてくれるか、その選択基準は良しとしても、最低賃金が庶民の生活に与える影響や、労働行政の方向性が政治の力で、どう変わって、サービス残業などへの行政チェックが、まともに行われるようになるには、どういう政権が必要か、なんて話を真面目にやっているんだろうけれど、小学生程度の単純化した会話になっちゃって、結局は、にわとりマークの政党か、ブタさんマークの政党か、っていう選択になるんだろうね。ま、政治音痴の団塊世代がオピニオンリーダーという、特殊社会が、いまの日本だから。結局は、“丁半”になるのかも。
 しかし、まぁー、本当に“バラ色”の日本国家が、実現するのかねー?早くも、正月ごろには、鳩が日本の空から消えたりして。冗談だけど。どっちにしても、緊急課題は、内政なんだ。国会議員100人を各省庁に分散させて、与党の政策を実行させる。結構な話だよな。しかし、正直な話、じっくりデータを分析して、過去の行政や外国の実例などを参考にし、なおかつ、地方を含めた過去の業界の人脈や現状の力関係をふまえ、与党の政策をグイグイねじ込める人材が、それほど、民主党に沸いて出るほどいるのか?もし、いるのなら、いままでの予算委員会なんか、ドラマ「相棒」より、ずっと、ハラハラ、ドキドキしたはずなんだけどねー。好意的に見たって、せいぜい、3人か4人に1人いるか、いないかだと思う程度じゃないのかな。もし、本当にやるのなら、業界から小遣いをせしめようなんて、ケチな野郎は一人も出ないはずなんだが。ま、この辺は、“連合政権”のナフタリンに徹しようという、共産党に期待するか。この党の強みは、中央の政策が地方組織にまで浸透できることだから、せいぜい、監視役になってもらおう。
 それにしても、自民党の自称“実力者”の実力のなさが、ビラを見ても明らかになっている。党のビラに頼らず、自前でってつもりだろうが、私の地域から立候補する「アイシャルリターン」のご婦人なんか、まるで、お見合いパーティーの履歴書みたいなビラを作って、この方の思想信条がどこにあるのか、まったくわからない。ビラの全面にわたって、自己PRを細々と散りばめているにしては、国防の根幹をどこにおくのか、平和をどうやって達成するのか、皆目、触れていないし、唯一、興味があるらしい環境問題だって、まるで意欲が感じられない内容だった。結局は、従来の保守政権から1歩も出られない、およそ“改革者”とは言えない俗物だったことが、露呈しているんだね。ま、過去にも政界ホステス風の議員は少なくなかったが、小沢、細川、小泉と浮名を流した(?)割には、ウブだったのかもね。前回選挙では“刺客”として名を馳せたが、こんどは野党から“刺客”を送られ、防戦一方ってか。当初は、地味な大学教授って印象だった野党候補に軍配が上がりそうだって話なんだけど、ま、都議選の勢いがあるから、メディアの票読み通りになるのかもね。
 しかし、一般的に慎重すぎる長男の性格通りなのか、見事に“ホンネ”を出さないのが鳩の兄ちゃんですな。“愛”が売り物らしいのに、その“愛”の対象が、貧乏人なのか、金持ちなのか、ハッキリしない。“バラマキ”と言われる政策は、小泉と竹中の極悪コンビが破壊し尽くした“もう少しで中間層”だった、いまの“新貧困層”の底上げを狙っているようだが、もう一つハッキリしない。まして、生保以下と言われる高齢、最下層の難民未満に対する“愛”が感じられないんだね。仕事の技術はあっても、社会的に受け入れられない高齢の仕事難民はヤマほどいるが、選挙目当てで、アベお友達内閣が若者以外には金を使わないことにしたため、労務管理のベテランがビル掃除をしたり、高齢者だがパソコンは得意というおっさんが、やっとのことで街のパソコン教室で、お手伝いのようなことをしている。地方自治体には、昔から定期的に事務のアルバイトを使う習慣があるが、ほとんど親離れできない若者に限定している。「愛があるなら……」。こんなフレーズの歌があったか、なかったか知らないが、“愛”の対象が、どこにあるのか、明確になれば、自ずと答えは明確になるはずだ。鳩の兄ちゃんへ、あんたの性根を早く見せておくれ。あんたが、救世主か、史上最悪のペテン師か、答えはいずれ明らかになるだろう。

敗戦記念日と左翼の成長 [社会批評・評論]

 私は、4歳で敗戦を迎えた。あまり記憶がないが、夏の初めごろには、疎開先から実家に戻っていたと思う。父親は“隣組”やその連合の世話役のようなことをしていて、上には町会長がいたという話を、後になって聞いた。ま、そんなわけで、8月15日には、家の前に、父親が家から持ち出したラジオを取り囲むように、近所の人たちが集まってきた。悔し涙なんか、流す大人は誰もいない。みんな、押し黙って放送を聞き、去って行ったと思う。後から考えると、私が、母親に連れられて、荻窪の実家に帰って来た時点で、すでに日本の敗戦は予定の事実だったのかもしれない。広島や長崎の被爆は知らないが、東京の焼け野原を見れば、すぐにでも全面降伏するのが、日本の取るべき道だと思うのが自然だったろう。私が実家に戻った時には、まだ近所の子供は誰もいなかった。我が家以外には、人の気配がほとんどなかったような気がする。そんなわけで、一人で遊んでいたが、ある時から、ふと思いついて出た言葉が、「大東亜戦争、勝った勝った、勝った」である。3歳から、ほとんど、親類を頼って、兄とは別々の場所で、しかも、母親は行った先の農家や漁師の手伝いをさせられる毎日だから、1人で歩き回っていた。「大東亜戦争……」のフレーズは、疎開の初めの頃に、従姉妹たちが多い親戚にいる時に覚えたものだが、初めて聞いた時は本気で“この戦争に勝つ”とは思わなかったという記憶がある。
 にもかかわらず、日本の敗戦を知った4歳の私が、どうして「大東亜戦争、勝った……」と歌い出したか、というと、子供心がなせる、社会、幼い様々の経験に対するプロテストだったような気がする。そう、あの瞬間こそ、私のひねくれの始まりだった。小学校に入って、“太平洋戦争”という文字を目にした時、微かな疑問がよぎった。どうして、大東亜戦争じゃいけないんだろう。その後は、ずっと、“太平洋戦争”の連続である。戦争中の日本人が、誰でも口にし、耳にしてきた「大東亜戦争」には、八紘一宇という思想と共に、戦争の真実が表現されていると思う。満州に始まり、中国、東南アジアへと進駐を続けた日本軍の姿は、まさしく、大東亜共栄圏を目指していたのだ。にも関わらず、どうして、当時の教育関係者が官僚や米軍の意を酌んでか、“太平洋戦争”なるネーミングにこだわったのか。およそ、“太平洋”という地名から、誰が中国、東南アジアを想像できるのか?私は、この歴代の間違ったネーミングこそが、多くの日本人にとって、あの戦争の真実を忘れ、次代へと語り継げない最大の原因だと思う。そして、日本人が歴史への反省を、日常的にできなかった原因も、ここにある。あの戦争は大東亜共栄圏を作るための、間違った戦争であったのだと、あの戦争に関して話したり、聞いたり、読んだりするたびに、感覚で反復できなかったからこそ、いまの憲法論議のあれこれにも繋がるのである。
 残念ながら、こういう現状に、いまだに大きく“貢献”しているのが、日本の左翼なのだ。東京の杉並で、例の“新しい”とか言う歴史教科書を採用するとか、反対だとかというニュースを見ていたら、相も変わらず、「大東亜戦争」がけしからん、“太平洋戦争”に戻せと、左翼が主張していた。もっとも、いまのインテリご婦人たちは、自分は左翼じゃないと、本気で思っているんだろうが、“普通の”何もしない人より“左”の人を、昔から左翼って呼ぶんだよ。こんなわけだから、政党も個人も、日本の左翼はもっと、もっと、勉強すべきだと思うね。だいたい、入り口の「大東亜戦争」で、それは“太平洋戦争”だって文句をつけていたら、論争にもならねーぜ。本当に「新しい歴史」を学ぶのなら、アメリカ人の常套文句の“パールハーバー”では何人のアメリカ人が死んだのか、アメリカはどうして長崎の爆心地にあった教会を撤去させたのか、占領中の売春婦対策は完璧で、日本人の素人女性に対する暴行は記録に残っているのか等々、左翼の方でも論争を吹っ掛けていかないと、いまの歴史教科書が“正解”ってことになっちまうぞ。

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